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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第3節 焦慮 [4]




 少しボカしたような高い小さな音と共に、扉が開く。動き出す時も止まる時も、ほとんど衝撃を感じなかった。かなり性能の良いエレベーターだ。
 降り立った八階のフロアーは静まり返り、わけもわからずついてきた美鶴と聡は、不安すら覚える。
「こっち」
 山脇は肩越しにチラリと振り返り、先に立って歩く。そうして、802号室の前で止まった。手に持つ鍵を鍵穴に差し込むと、そのまま暗証番号を押す。
「ここでも?」
 思わず美鶴が呟く。
 山脇が暗証番号を押すのは、ここが三回目。一回目は、このマンションの入り口で。二回目はエレベーターに乗るとき。
 カチリと、開錠の合図にしては品の良い音。鍵穴の上のランプが赤から青に変化した。扉のバーを握ってゆっくりと押し開く。向こうから、洗礼された空間が三人の目の前に姿を見せる。
「何これ?」
 部屋を見渡しながら、呆気にとられてそれしか言えない。
「ホテルみてー」
 薄いブラウンを基調とした、落ち着いた雰囲気の壁紙。同じブラウン色で統一された玄関。玄関から入り、上半分が霞ガラスの扉を開けると右手にキッチン。その前にある無意味とすら思える6畳ほどのスペースを抜けると、突き当たりに広がるリビング。こちらも茶系でまとめられている。置いてある二人がけのソファーのみが真っ黒い。だが、床のフローリングも深めの木調なので、違和感はない。
「たいした部屋ね」
 驚きを通り越して少し呆れたような美鶴の言葉を、山脇は言葉通りに受け取った。
「気に入った?」
 ?
 無言で振り返る美鶴に、山脇はもう一度問いかける。
「気に入った?」
「気に入った ……?」
 今度は小首を傾げる。
「気に入らない?」
「どういう意味?」
「言葉通り」
「嫌味?」
「どうして?」
 まったくワケがわからないといった表情の山脇に、美鶴は卑屈な笑みを浮かべる。
「アンタの部屋を、どうして私が気に入らなきゃならないの?」
 そこそこ…… いや、かなりの高級マンションだろう。一人で暮らしていると言った。
 わざわざ自慢するために呼んだのか?
 だが山脇は、美鶴の言葉に慌てたように両手を振る。
「ここは僕の部屋じゃないよ。僕が住んでるように見える?」
 確かに、壁際のサイドボードには何も入っていないし、全体的に生活感が感じられない。故に一層洗礼された部屋として見えるのかもしれない。
「え? 違うの?」
 寝室っぽい隣の部屋を覗き込んでいた聡が、驚いたように振り返る。
 てっきり山脇の部屋なのだと思っていた。
 マンションに入った時から、山脇の部屋に案内されるのだろうと思っていた。
 美鶴を自室へ連れ込んでどういうつもりだと、途中から殺気立たせて付いてきていた聡は、拍子抜けしたように肩の力を抜く。
「じゃあ、ここって……」
 ますますワケのわからない二人を前に、山脇は両手を胸の前で組んで一呼吸置く。
「君の部屋」
「は?」
 まっすぐに見つめられても、言われている意味がわからない。
「はぁ?」
「君と、君のお母さんの部屋」
「え? どういうこと?」
「借りたんだ。前に言ってただろ? いつまでも霞流さんのところに厄介になってるワケにはいかないって」
「借りたって、アンタが?」
 まさかっと言うように苦笑する。
「名義は父さん。心配しないで。父さんはアメリカだし、日本に来ても滞在するところはいくらでもあるから。ここに突然押しかけてくるなんてことはあり得ないよ。実際には、この物件の位置すら知らないんだからね。住所は知らせてあるけど、日本の地理には疎いし」
 次々に言葉を出してくる山脇の声が、呆然と頭の中に入り込んでくる。
 いや、耳には入ってくるのだが、頭を素通りしていくようだ。
 何を言われているのか、理解できない。
「ここからだと、乗り換えなしで学校にも行ける。あの駅舎へは遠くなってしまうけどね。ただ、あの駅舎の近くとなると、どうしても治安が………」
「ちょ……」
 息継ぎもそこそこに言葉を並べる山脇を、必死の思いで遮った。
「ちょっと待って」
 視線を落とし、片手で額を押さえる。山脇は一度口を閉じる。
「何?」
「あの……」
 頭が混乱して、何をどう言えばいいのかわからない。
「あのさぁ…… この部屋が私の部屋だって」
「そう。気に入らない?」
「気に入るとかっていうんじゃなくって……」
 どうして?
「どうして?」
「え?」
 声が聞き取れなかったのか、山脇が身体をやや前に傾ける。
「どうして、ここが私の部屋になるワケ?」
 目を閉じ、必死に思考を定めようと試みる。
「いったいさぁ〜 どういうこと?」
「君のために借りたんだ」
 君のために……
 美鶴は顔をあげた。
 どうしてこんなことになったのか。それはわからない。でも、山脇の意図は理解できる。
「できないよ」
 呟くように言葉を吐いて、頭を振る。
「だって、この部屋すごく高いんでしょ?」
「だろうね」
 まるで他人事。サラリと答える山脇の態度に、怒りが湧いた。
 怒りが、胸のうちに生まれた。
 こんな賃貸物件があるとは思わなかった。このようなマンションは購入するものだと思っていた。
 きっと家賃は、今まで美鶴が暮らしていたボロアパートより何倍も、何十倍もするに違いない。それを、なんでもない事のように言ってのける山脇が、ひどく嫌味な人間に思えた。
 唐渓高校の、財力を笠に優越感を押し付けてくる、美鶴が嫌う他の生徒と同じ(たぐい)の人間に思えた。
「…… 結構です」
 湧き上がる不快感を必死にかみ殺しながら、なんとかそれだけを口にする。
「え?」
「気持ちだけは受け取っておく」
 そう言うと、入ってきた玄関へと向きを変える。
「え? 何? ちょっと……」
 慌てて手首をつかむ山脇を、肩越しに見つめた。冷ややかな瞳。
「私、ここまで世話になるほど落ちぶれてはいない。バカにしないで」
「バカにする? どうして?」
「どうして?」
 向き直り、身を乗り出す。
 腰に手を当て、自分よりもずっと上にある山脇の顔を睨み上げ、大きく息を吸う。
「アンタがどれほどの金持ちかは知らない。きっと私なんかよりもずっとずっとお金に余裕があるんでしょう? それはかまわない。そのお金をアンタがどう使おうと、私は知らない。でもね、同情は辞めて。迷惑だわ」
「同情?」
 困惑したように呟き、やがてハタッと目を見開く。そうして、掴んだ手首を一層強く握り閉めた。
「違うよっ」
「っ!」
 握られた痛みに思わず美鶴の顔が歪む。
「同情なんて、そんなんじゃない。ただ、何か役に立てばと」
「こんなの、かえって迷惑だよっ」
「どうしてっ?」
「どうしてって、こんな赤の他人から部屋を提供されたら、誰だって困るでしょうっ!」
「霞流ってヤツならいいのかよっ!!」

 何か…… いつもの山脇とは違う。







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